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お別れ その5

友達の家を出た後は東京に戻るべく、高速道路に上がります。

その前に、寄り道して先生宅に行ってみました。

まるでストーカーみたいな行為ですが、行ってみるとまだ煌々と明かりが点いているのでした。

もちろん立ち寄ることはせずに前を往復しただけです。

高校時代を思うと、10を3で割るような割り切れないわだかまりがあって、今でもくすぶっているのです。

当時、高校時代を過ごした人には多かれ少なかれわだかまりを感じているものだと思うのです。

でも今にして思うと高校時代はまるで子供でした。子供も子供、恥ずかしいぐらいの子供で、穴があったら入りたい、入ったら出たくないと思うほど。

卒業式が終わって最後のHRで先生は言いましたね。

「若い時の1年や2年なんて、何でもないですからね」

当時、子供だった自分には意味するところはわからなかったのですが、今にして思えばよくわかります。

三無主義、五無主義を地でいっていたような生徒でしたから推して知るべし。在学中には同窓会なんか行くもんかと思っていた位でしたね。共通の思い出もあまりありません。

地平線が見たいとやりたいことを見つけても、在学中に実行できないもどかしさで悶々と過ごしていたものでした。ズバリいえば不満タラタラ。余計な事はするな、考えるな。右に曲がったり左に曲がったりできないで、線路の上しか走れないもどかしさを感じていたものでした。

卒業後は知らんぷり状態で年月が流れました。その間に念願だった「日本1周」もなんとかやり遂げ、次の目標「沖縄・島巡り」もなんとか全島制覇。その過程で人の心に触れたような気がします。

「それではシンさん、またどこかでお会いしましょう」

那覇空港で、粟国島から一緒に飛行機に乗った方に掛けられたこの言葉。前日に飛行機が欠航になってしまい、宿に戻る途中、この方の車に拾われたのでした。そして翌日の飛行機の一緒に乗り、お世話になったお礼を述べた時に言われたのです。通りすがりの一旅行者にさえこの様な言葉をかけてくるのには感激しました。感激のあまり声が詰まってしまったほどです。以来、沖縄が好きになりました。

地縁、血縁が強い土地柄に人としての温かさも強く感じたものでした。今に至るまで沖縄には何度も行ってますが、海や空が綺麗なだけではなくて人としての温かさを感じるからこそ何度も行っているのです。

さてさて、思わぬところで同窓会のお誘いが。しかも全クラス合同での開催です。高校時代は過ぎ去ってしまった過去の事。今更の感があって返事はギリギリまで延ばしていました。卒業後はほとんど会ってないし、今となっては誰がどこで何やっているわからない。

それでも大幹事さんの熱心な誘いにとうとう折れて出席表明。すると先生の近況を知ることとなった。透析していること、ガンで胃を半分切除した事、等々。

えっとびっくり仰天。クラス幹事も電話をかけた事だし、1度はお会いすべき。そこで電話をかけて来訪の意を告げると

「あっ、いいですよ。何時頃来られますか」

と応諾してくれました。

電話では自分の事は覚えていないようでしたが実際に会ってみると

「君は少し大きくなったのではないか」と記憶に残っていたのです。

在学中では聞けなかった話を聞く事が出来ました。

先生のお父さんも教師で1つの学校でヒラの教師から校長まで上り詰めたこと。お兄さんが陸軍少尉の船舶兵で台湾から沖縄に向かっている途中、輸送船が撃沈されて戦死していること。跡を次ぐ人がいないので呼び戻されて教師になったこと。最初の勤務校がお父さんが勤務していた学校で、お父さんの退職と入れ替えに赴任した事を話してましたね。この年の1月6日をもって、事故を起こしたらどうするんだと家族の反対もあって車の運転もやめてしまったとも話していました。

この時は卒業写真を持って行ってお見せしたのですが、生徒をあまり覚えていない様子。でもこれは仕方ないなぁ。逆の立場だったら覚えているかというと、覚えていないと思います。

「退職して23年が経って、どうしても記憶が薄くなってしまって。うんと叱ったとか、そういう生徒なら覚えているのだが…」

それでもかつての教え子が訪ねてきたのが嬉しかったのか、涙ぐんでいるのかなという目をされてました。

「他の高校の生徒さんで訪ねてくる人はいるけれど、(自分が卒業した)○○○高校の生徒さんはサッパリ。お父さんの教え方が悪かったのかしらねぇ」と奥様に言われてしまい、私も同級生も言葉が出ませんでした。

この時は同窓会に参加して頂こうとも目論んでいたのですが、他校のそれにも健康上の理由で失礼していると聞かされ、言い出せませんでした。「○○○高校在学中はお世話になりました。ありがとうございました」と言うのが精一杯でした。

その後同窓会が開催され、そこで書いた色紙を持って5人で先生宅を訪問。ちなみに私、色紙には先月に会っているので色紙には細々した事は書かないで、「また遊びに行きますね」と書いたのでした。これは楽しみを持ってもらおうと思ったのでした。

女子がいると賑やかなもので、

「なんだか面影が蘇ってきたぞ」

更には

「写真でも撮ろうではないか」と。

002b
この時の写真です。2011年9月23日撮影

翌々日、この写真をお渡しに行ってお話していました。奥様を呼ぶ時は「○○○や」とラブラブな言い回し。しかし、「追い出すようで悪いのだけど、具合が悪くなるといけないので…」と奥様に促され、「まぁ、いいではないか」と先生は引き止めようとしたもののお宅を辞したのです。「また来ますね」と言ったものの、これが先生にお会いした最後となりました。

翌年の6月に電話したものの繋がらず、不安を持ったので訪問したものの留守。近所の人に聞いみると入院はしていないが、なぜ留守なのかは分からないとの事。これを渡してくださいと依頼して後にしたのでした。その後、電話がかかって来たものの、今度は私が留守。それから2日して電話して「元気にしております」。これがお声を聞いた最後でした。

9月に電話して訪問の意を告げても、奥様から体調が悪いのでと断られてしまいました。具合は悪いようで、そんなに具合が悪いのなら検査をしましょうと勧められても、何かと拒んでいる様子。気力が萎えてきているのかなと不安に思いました。

今年3月に「先生のお体の具合はいかがですか」と電話してみたのですが、頭の方はしっかりしている。バスに乗って頑張って病院に通っている。春になって暖かくなれば体調も良くなるのではないかと奥様。その声は涙声でした。

そして、そろそろまたお電話をと思っていた今月9日。とうとう亡くなられたのでした。それは2年前に同級生と一緒に先生宅を訪れた日でもありました。奇しくもとしか言い様がありません。

香典には自分の名前の横に厚かましいかもしれませんが「○○○高校卒業生」と書きました。それはご遺族の方に自分の身分を明かすと共に、先生の教えは立派でしたよとメッセージを込めたのです。

今はただただ、先生のご冥福を祈るのです。


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